人間の「能力」とは何を意味するのでしょうか。
そもそも能力とは
スポーツの世界でときどき天才少年が登場しますよね。ここでは例えばサッカーの天才少年について考えてみます。
天才少年が高校の全国大会で注目選手となり、実績も残して海外のチームにスカウトされたとします。今やこのような選手は日本でも珍しくありませんし今後も増えるでしょう。
同じく、そのような選手が世界レベルの活躍を目指して海外に行ったものの、期待された成果を残せず、いつの間にか引退している・・・ということも今後増えていきそうです。
では、そうなってしまうのは、この選手の「能力」はすごいけど「環境がマッチしなかった」ということでしょうか。
または、少年期までは天才の名をほしいままにするほどの才能があったものの、大人になるにつれて「能力」がそれまでと比較して「伸びなかった」ということでしょうか。
つまり、能力とは生まれながらに備わったものであったり、その後に伸ばすことも縮めることもできるものなのでしょうか。
世の中では両方を含むものとして認識されていると思います。
しかしこのとき、その「能力」は何をもって「もともと備わった」とか「伸ばせた」とか「縮まった」と言われるのでしょうか。
結局それを判断するのが第三者であるならば、「成績」や「動き」のような外形的に見える指標によって「能力が伸びた」などと評価されるはずです。
そうすると、何故われわれは、目にも見えないイメージを持ち、実態もよくわからない「能力」という言葉をわざわざ使うのでしょうか。「成績が良くてすごい」「きっとすごく頑張ったのだろう」だけではだめなのでしょうか。
能力なんてものはない?
ここでは、「働くということ『能力主義』を超えて 勅使河原真衣著(集英社新書)」を参考に「能力」について考えてみます。
本書では、この「能力」を一刀両断しています。どのように一刀両断するかというと、「能力」という言葉が普及してきた政治的な理由を背景に「能力」が社会を分断するキーワードとなってきたことや、そもそも「能力」という言葉で評される実体の曖昧さなどを解き明かすことによってです。
例えば本書で引用される本田由紀氏の「能力」に対する次のような洞察は、本書における「能力」に対する態度として通底しています。
「能力」や「資質」「態度」はいずれも、人間の何らかの状態を呼び表す言葉だが、これらによって呼ばれている「何か」が実際に存在するわけではなく、私たちが自分の周囲の人々の動きや様子の一部をこのように名付けているにすぎない。しかし、これらの言葉が流通することで、私たちはあたかも人間にはそれらの言葉で呼ばれる「何か」が実際に備わっているかのように感じ、考え、それに基づいて日々の相互行為や判断や、あるいは制度・法律の制定などまでが行われる。(中略)(この)言葉に、この社会と人々ががんじがらめになっていることが、多くの問題を生み出してしまっている(後略)。
「『教育は何を評価してきたのか』ⅳ~ⅴ頁 本田由紀」(本書P.46)
本田氏は「能力」が諸問題を生み出しているのではなく、それが実体もないままに流通することによって諸問題を生み出していると言っているのです。
日頃なんの違和感も持たず「能力を伸ばさなければ良い職につけない」「能力が高い社員ほど出世する」「自分も能力を高めなければ」などと思っている人は多いと思います。
しかしそれは「能力」という「言葉」によって生み出された幻想であって、このような言説がコミュニケーションの連鎖を通じて、「日々の相互行為や判断、あるいは制度・法律の制定などまでが行われ」ているとしたらどうでしょうか。
さらに本書では、「能力」は政治的な統治に相性が良く、新自由主義的な政治システムにとって「能力」が利用されていると指摘しています。小泉元首相の経済戦略会議での以下の答申が引用されます。
日本が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような「健全で創造的な競争社会」に再構築する必要がある。競争社会という言葉は、弱者切り捨てや厳しい生存競争をイメージしがちだが、むしろ結果としては社会全体をより豊かにする手段と解釈する必要がある。競争を恐れて互いに切磋琢磨することを忘れれば、社会全体が停滞し、弱者救済は不可能になる。
「『日本経済再生への戦略」(経済戦略会議答申)平成十一年二月二十六日」(本書P.39)
以上のような問題意識をもとに、本書では組織開発を専門とする著者が、今や一大産業化した「社員の能力を高めるための」能力開発手法とは異なる方法による組織開発・マネジメントのあり方を提示しています。興味があればご一読ください。
結局のところ「能力」とは
結局能力とは何なのでしょうか。
先ほど引用したように本田氏は次のように言っていました。
「能力」や「資質」「態度」はいずれも、人間の何らかの状態を呼び表す言葉だが、これらによって呼ばれている「何か」が実際に存在するわけではなく、私たちが自分の周囲の人々の動きや様子の一部をこのように名付けているにすぎない。(本田由紀, 本書P.46)
例えばある営業社員が好成績を残した「要因」を考えます。
それは例えば次のようなものかもしれません。
好成績の要因(想像)
会社に入ったタイミング、部署に配属されたタイミング、上司・部下(周辺社員)のサポート、上司におもねる上手さ、上司からの期待、それまでに引き継いだ仕事、経験してき仕事、それまで付き合った顧客との関係、仕事をこなす努力、仕事を獲得する努力、顧客の業績、顧客の業績を生み出した環境変化、人に接するときの冷徹さ、表層的な態度、陰口、人からかすめ取る狡さ、家庭状況、自己欺瞞、自己陶酔、承認欲求の強さ・・・・・・
「要因」はこれだけでなく、人間の認識を超えたところに実に様々あって、好業績を残す「結果」を導いているのかもしれません。しかし、一般的には「いや~、あいつがあんな好業績を残せたのは、まあ、あいつの仕事の能力が高いからな」と一言で片づけられます。
そうであれば、能力といわれる「『何か』が実際に存在するわけではなく、(中略)名付けているにすぎない」というよりも、ある「結果」の「原因」が人間の認知を超えた要因で構成されているがゆえにそれを特定できないとき、人はひとくくりにその要因を一つの概念に閉じ込めることで納得しようとする、ということかもしれません。
つまり能力とは、「何か良い結果が生じたとき、事後的にその要因を特定するために、敢えて簡便的にそれに関わった人間のなかから一人を特定し、しかもその特定の人間の内面にわざわざ焦点をあてて指し示される、よくわからない概念のこと」と言えそうです。
あえて哲学的にいえば、「能力」は「実体化」(=無いものが有ることのように自明視されること)によって、社会の至るところで権力的な言説を生み出し、人々を抑圧しているということです。
そうだとすると、「能力」という言葉の使い方を一人一人見直して、今後は慎重に使うべきかもしれません。
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