
前編では、経営学に野生の感覚を取り戻すことの必要性について、サラスバシーが提唱した「エフェクチュエーション」等の概念を踏まえ、本書で述べている著者の見解を概観しました。
後編では、中小企業経営においても参考となると考えた事例を、本書から2つほど紹介したいと思います。
模倣的同型化
二郎系ラーメンがなぜこんなにも増えているのか?著者はその理由を「模倣的同型化」という制度派組織論の考え方で解釈しています。模倣的同型化とは読んで字のごとく、流行っているラーメンを模倣すること。ラーメン二郎にインスパイアされた「二郎インスパイア系」のラーメンが該当します。
流行っているラーメン店を模倣することは、金融機関からの融資の際に有利になると著者は言います。
本当に味が良いかどうかはいったん横に置いておいて、融資担当者にも客にも味が「計算」できることが重要なのです。(P.85)
金融機関で融資を引き出す時、成功するかどうかわからないラーメン店よりも、「二郎系ラーメン」であることに加え、例えば「若者が多い場所に出店すること」を合わせて説明すれば、融資担当者としては算段が付けやすい。どんな味で、ターゲットは誰で、どの程度のニーズがあるか。このような算段が立ちやすいのです。また、消費者にとっても、その店のメニュー写真をみれば、どんな味で、どんな食事が体験できるか容易に想像できます。
「流行しているということは、一定の顧客数が既に存在しているということです(P.84)
つまり二郎系ラーメン店は、一定数の顧客が見込め、失敗もそこそこ避けられる(とスポンサーが考える)ことから、参入に際しての障害が少なく、これほどまでに増えているのです。
模倣的同型化は、決して安易ではなく、極めて合理的な判断であると考えられる (p.87)
当然ながら、二郎系というマーケットに飛び込んだ後、持続的に生き残っていくために差別化は必要になります。この先同じ戦略を持った店がすぐ近くに出店しない理由などありませんし、これまで以上に健康志向が世を急速に席巻するかもしれません。そういう意味では、その都度、模倣的同型化と差別化を組み合わせる感覚(野生の感覚)をもってラーメン店は日々事業を営んでいく必要があります。
しかし、そもそも「差別化」は、同じものからの「ズレ」によって生じます。比較対象があって初めて比較されるものの価値は発生するのです。しかも人間は、関心を寄せる対象に対するちょっとした「ズレ」や「違い」に対して非常に敏感です。例えば人間は他の動物の個々の顔の違いをなかなか識別できない一方で、関心対象である同じ人間の顔については少しの違いでも見分けられます。
ここまで考えると著者の言う「決して安易ではない」ということの意味が、より一層わかる気がしてきます。
連結
企業組織にとって、目的と手段の一致を目指すことは、強力な組織を形成するための必然に見えます。しかし、その前提となる環境が変わった時に、目的―手段の関係が固く結びついていると、組織は変化に対応できず死滅してしまう。激しい環境変化に対応して生き残るのは、目的―手段の連結が弱く、容易に脱連結して手段を入れ替えることのできる組織なのです。つまり「強い組織ほど脆い」のです。(p.126)
著者はこの連結の強い組織と弱い組織をそれぞれ、新興宗教と寺院になぞらえます。
明治維新以前、寺社領には徴税権が与えられていて国家公務員のような立場にありました。そのような環境にあったからこそ、寺院は仏教の信仰や布教に集中できました。ところが地租改正によって、徴税権の無くなった寺院は、行政のような立場から独立事業者の立場に変わらざるを得なくなりました。特に、信仰の自由が認められて以降は、それまで収入源となっていた檀家制度も人々が強制されるものではなくなり、宗教で稼ぐには別の道を探る必要が出てきます。
そこで寺院は2つの立場に分かれることになります。1つは宗教団体としての純粋化の道。もう一つは信仰と稼ぎの緩やかな分離の道です。
前者がいわゆる新興宗教です。新宗教では「お布施」の他に、何の変哲もないもの(例えば壺や家財道具など)を教祖が「聖なるもの」として物象化し、信者に売ることで組織基盤を整備していきました。収益源が信者からの寄付に依存すればするほど、閉鎖空間を作り上げて信じ込ませることが当該組織の存否に直結します。これが自己目的化するとカルト化しやすいビジネスができあがる。危険な集団がのちに現出してきたことは周知のとおりです。
新興宗教からわかることは、「資本と信仰が密接に結びつくと、信仰は資本に従属してしまう」ということです。それほどまでに資本の力は強力なのです。
もう一つの「信仰と稼ぎの緩やかな分離」とはどういうものでしょうか。
少し発想を変えれば、都市部の寺院は一等地に広くまとまった土地を持っているわけです。この土地を担保にしてビルや駐車場を建ててしまえば、不動産収入が入ってくる。そうすれば、墓地の維持や寺院の建て替えの際に、檀家の方に寄付をお願いしたり、お葬式で高い謝金を設定して、檀家の方の不満を高め、離反を招くようなことを心配することなく、信仰と布教だけに集中できます。いわば、信仰や宗教と稼ぎを切り離すことで、逆説的に信仰そのものに向き合える状況が生まれるわけです。かつて寺院は幕府や朝廷、大名や貴族から領地を与えられていましたが、それを現代の市場経済に適応してビジネスモデルを変換したと見ることができるでしょう。(p.124)
宗教は、目的(=教義)を達成するために、手段である布教・信仰を行います。しかし現代では、財政基盤が無ければ、「布教や信仰」という手段を講じることができません。新宗教はそれを「布教・信仰」と「資本」を一致させるという非常に合理的な手法によって勢力を拡大してきました。そうなるとお金を多く寄付する人ほど救われるという奇妙な論理によって組織が運営されることになります。ただしこの場合、組織運営のベースにある信仰が何らかの理由で揺らいだ場合、信仰と分離不可の関係にある資本が不安定化し、組織自体が揺らぐことにつながる危うさもあるのです。
他方で、伝統宗教は、寺社領という不動産から収入を得ることで、「布教・信仰」と「稼ぎ」を”切り離す”ビジネスモデルを展開しました。確かに生活のためにビジネスをやりながら、一方で布教活動を行うことは大変でしょう。それでも、「教義・信仰」と「稼ぎ」が切り離されているからこそ、教義を先鋭化することなく、資本とは無縁のところで信仰を純化していくことが可能となるのです。
環境が不安定化するとき、強固に合理化された組織は脆さを見せます。環境変化が激しい産業や企業にとっては、目的-手段の連鎖を「脱連結化」できる柔軟性をもった組織であることが求められると言えそうです。
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